『 アクアリウム 』 (前編)

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 柚子は、3つ年下だ。
今年で、小学2年生になる。

 ひっこみ屋だし、頭はとろいし、動きもにぶいので、
お昼休みには、いつも教室のはじっこで本を読んでいる。
 学校のあともまっすぐ家に帰ってきて、あまり外で遊んだりしないらしい。
なので、柚子の兄きのセイゴは、おれと遊ぶときはいつも柚子を連れてきた。
 セイゴとは、ようち園のころからずっといっしょだったから、おれは柚子とも、ずっと昔から知り合いなのだった。

 柚子がいるときは、きまって毎回、安全でたいくつな遊びになった。
 ママゴトだとか、かくれんぼだとか、だるまさんが転んだとかだ。
柚子は泣き虫だし、TVゲームも弱いので、むずかしくて勝ち負けの決まる遊びもやめておいたほうがよかった。
 おれは本当は、たんけんとか、ピンポンダッシュとか、もっとスリルのある遊びをやりたかったので、
『ビミョーだ』、と、思っていた。
特にビミョーだったのは、ブロックべいの上で、柚子が持った、わりばしに垂らしたタコ糸に、おれがせっせと洗たくバサミをくっつけるだけの遊びだ。 『つりぼりごっこ』というのだけれど、あれは、本当に、特に『ビミョーだ』と思ったものだ。
「すまん、ケンイチ、お前ばっかり… かわるよ、つぎ、おれが魚やる。」
セイゴがそういってもうしわけなさそうにあやまったときは、面白かったけど。
柚子はあのつりぼりごっこが好きだった。
 たまにめんどくさくなってきた時に、『大漁』だとかいって一度に3ひきくらいつなげてくっつけてやると、
柚子は無じゃ気にすごく喜んだ。
『大漁』は、その前に全然引きが来なくても、流れとして不自然じゃないので、それをいいことにおれはけっこう『大漁』を連発した。

 一番ビミョーなのは、柚子の一番好きな遊びが、じつは一番たいくつな事だ。
なんでも柚子は、水そうを眺めるのが一番楽しいらしいのだった。

「こ、こんにちは。」
 柚子はおれの顔をみると、はじめて会ったみたいに いつもきんちょうして、小さい体をさらにちぢめるようにして、
ぺこりとおじぎをする。
で、きょろきょろとおれんちを見回して、ぼそぼそとした小声で『水そう見たい』、と言う。
 おれんちには、ねったい魚がたくさん住んでいるデカイすいそうがあるのだ。
柚子は魚がすごく好きらしくて、いつもいつもその水そうを見たがった。

 柚子は水そうの前にくると、両手でほおづえをついて、
ぽけーっと、うれしそうに水そうの中で泳ぐ魚をながめる。
時間がたつのを、わすれてるみたいだ。
「カルピス飲むか」 と声をかけても、すぐに返事をしない。
 ぽけーっとしはじめると、しようがないのでおれとセイゴはTVゲームとかで時間をつぶした。
柚子がいると、何して遊ぶか考えるのがとてもめんどうくさいけど、柚子がだまって水槽に夢中になっていると、
それはそれで何かたいくつだと思った。



 6月の梅雨の日。
いつものように柚子はおれんちの水槽の前で、ガラスにくっつくようにして泳ぐ魚を見ていた。
 外は風がつよくて、すごく雨がふっていて、時々カミナリがゴロゴロといっていた。
雷が恐いセイゴは、窓の外をみようともせず、もくもくとTVゲームのコントローラーを操作している。
 おれはセイゴがびくびくするのが楽しくて、まどを開けて、柚子みたく、ただ、ぼうっと、夜みたいなくもり空を見ていた。
 何かをぼんやりとながめていると、なんだか時間がゆっくり進むような感じがした。
柚子の時間は、こんなふうにゆっくりと進んでいるのかもしれない。
だとしたら、あの頭のトロさにもなっとくがいくな、と思った。
 セイゴをからかうのもあきたので、柚子に声をかけた。
「なー柚子」
 名前を呼ぶと、意外にも柚子は一回で気が付いた。
「なに、ケンちゃん」
 丸いネコみたいな目をこっちにむける。
「お前はこわくないのか、カミナリ」
「うん、こわくない」
 柚子がうなずくと、ちょうど まどの外が、カメラのフラッシュみたいに光った。
 そういえばこの間 家庭教師の先生が言っていたけど、カミナリが光ってから何秒たってから音が聞こえてくるかで、
今いるところから、カミナリが落ちたキョリまでが大体計算できるらしい。
音が1秒間に進むキョリは、約340メートル。 まどの外が光ると、おれは時計をみて秒数を図った。
 セイゴはゲームをしながら、「あー、あー」とわざとらしい声をだしている。
音がこわいのを、自分の声で紛らわせようとしているのだ。

 カミナリの音は、6秒後に届いた。
340×6だから、約2.2キロ先に落ちたらしい。


「…ちゃん、ケンちゃん」
 柚子が呼ぶ声にはっとする。 またぼんやりしていた。
「えっ、あ。 ごめん、何。」
「ケンちゃんもぼーっとしてたね。」
 おれの顔を見て、くすくすと笑う。
 これじゃ柚子のことをどうこう言えないかもと思う。
笑ったあとで、柚子はいつものぼそぼそ声で、問いかけた。
「ケンちゃんは、こわいものないの?」
「こわいものかあ。」
「ある?」
「…ないなあ。」
 考えたけれど、とくにおもいうかんでくることはなかった。
母さんも父さんも、勉強さえきちんとしていれば怒ることはない。
 学校でも、特に強てきになりそうなヤツはいなかった。
 6年生のカシハラくんも、だまってろうかをすれちがうくらいなら何も言ってこないし。
おばけは見たことないし、宇宙人はいないと思ってるし。
うん、やっぱり ない。
「ないのかあ。」
「うん。」
「いいなあ。」
 すごくうらやましそうに、柚子はそういってうなだれた。
柚子のこんな顔を見たのは、はじめてウチの水そうを見たとき以来かもしれない。
 うらやましいってことは、柚子にはこわいものがあるのだろう。
このトロくさいのがこわいと思うことって、なんだろう。
おれは なんだかきょうみが わいてきて、ソファから身体ごとふり向いて柚子を見た。
「お前は、何がこわいんだ?」
「わたしは・・・たくさんあるけど、一番はあれかなあ」
「あれ?」
「大きくなるのがこわいよ。」
 柚子はやっぱり、考える事が人とちがうのかもしれない。
おれは思わずわらって、聞き返した。
「なんで?」
 柚子は、笑ってるな、とちょっとスネた顔をしたけど、いたってまじめに答えた。
「だって、ケンちゃんやお兄ちゃんと、こうして遊べなくなるもん」
「…ああ、なんだ。」
 大きくなるって、成長する、ってことか。
 5年生になった今年から、おれは家庭教師にも勉強を教えてもらうようになった。
中学校は私立を受験する。
6年生になったら、あまりこうして3人でぼんやりして遊ぶことも、少なくなるのかもしれない。
それは確かに、少しさびしいことだった。
「最近わたしね、お魚に生まれてくればよかったなあと思って。」
 柚子はしみじみと言った。
「なんで?」
「だって」
 柚子がこっちを見た。
 セイゴはもうあと少しで、ゲームをクリアしそうだ。
 まんまるい柚子の目が、せわしなくきょろきょろしている。
いつもげんかん口でキンチョーしてるときみたいだ。
 おれは、あ、柚子のやつなんか顔が赤いけど、大丈夫かな、と思った。
 柚子はおれの目をしっかりみて、ぼそりと言った。
「だって、お魚に生まれていれば…この水槽に来られれば、ずっとケンちゃんと一緒にいられたのに」
 柚子がそう言ったとき、
まどの外が、とつぜん強く光った。
そして、1秒もたたないくらいすぐに、耳元で「わっ」と叫ばれたような、
耳をふさぎたくなるような大きな雷音が、部屋中にひびきわたった。

「わわっわわわわわ!!」
 セイゴはコントローラーを放り出して、部屋のすみにかくれるようにしてまどのほうをみた。
おれも柚子も、あまりの音に、耳をふさいだ。
 1秒もたってない。
雷が、すぐちかくに落ちたんだ。
 そのせいか、ほんの一しゅん、部屋の電気が 暗く点めつした。
セイゴのTVゲームは、それが原因でバグを起こして止まってしまった。


 ソファから顔を上げると、柚子は、もう水そうの方に目線をもどしていた。
真っ暗になってしまったTVをみて、セイゴが何かをぼやくのを、おれはぼんやりとながめていた。

 雷のせいでとぎれてしまった話は、それきりになった。
だけど、おれのこころのなかのどこかに、柚子のこわいものが少しひっこしてきたような気がした。
まだしばらく、雨は止まないみたいだ。
水そうの中では、何事もなかったように ねったい魚たちがゆらゆらと泳いでいる。

 柚子がおれと同じ私立の中学を受験すると言い出したのは、それから3年後のことだった。
 

つづく。

2010.08.19 Update.

  


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