『 グラス 』
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 千葉に引っ越すなんて話、今日初めて聞いた。
共通の友達の中でも、俺だけ3週間前なんて直前のタイミングで教えられた。
「えっ、 マジで」
いつもの居酒屋で、二人のテーブル席で。
つくねのタレを小皿の淵でこそぎなら、彼女ははにかむように笑う。
 理由は、彼氏の転勤だ。
結婚は、転勤先での生活が落ち着いてからにするらしい。

「明日、部屋見てくるねん」
「おー、そうなんや。」
 生ビールのグラスがかいた汗を指先でなぞりながら、俺は、ああ、と思った。
お幸せに。 なんでその言葉が出てこないのかというと。
理由はいたって簡単だ。
彼女が気づかない不毛な片想いの終わりを、最後まで気づかれることなく済ませたい俺の。
これはささやかな、ささやかな悪あがき。
「千葉かあ、千夏子の好きなディズニーランドがあんね。」
「そう。 でも、しばらくは遊びに行ったりできひんと思うけどねー。」
 全く、不満なさそうな顔で、彼女は笑う。
余裕のあるその表情に、チクリと刺すような胸の痛みを覚える。


 彼女に惹かれはじめたのは、就職仲間で、事あるごとに飲み明かしていたある日のこと。
いつからだなんて、正確なところはもうわからない。
 彼女とその彼氏はもうかれこれ5年で。
25歳には結婚したいという彼女の人生設計まで、確実に減ってゆくモラトリアムを、
同じ歳を重ねる俺は焦り半分、嫉妬半分で過ごしていた。
相手の男はどうなのだろう、なんて思ったりしながら。
 大阪にいて、仲間でも特別に仲が良かった俺と彼女は、
仕事で何かある度、お互いの会社の中間地点にある居酒屋で集合しては良く飲んだ。
『飲みにいきます?』
 メールの文面ならそれで十分で、片方が呼び出せば、必ずといっていいほど もう片方は付き合った。
閉店ちかくまで、愚痴を言いあったりすることもしょっちゅうだった。

 メール一通で、会うことができた。 今までは。
「向こうには友達がおらんのが、唯一ツライところやね。」
 空になったグラスの底の梅をつついて、彼女が口を尖らせる。
 新幹線と電車で3時間半。
距離は時間に換算すれば、そう遠いものではないのに。
この街から彼女がいなくなってしまうだけで、俺は彼女に会う術をなくしてしまう。
万に一つの心変わりに賭ける一通のメールも、効果を成さなくなってしまう。
「会いに行くよ。 これからは本社への出張が増えそうやから。 東京と千葉はお隣やろ?」
 きっとこの言葉も、社交辞令に終わるだろう。
そう思いつつも、「約束やで。絶対来てや!」と笑ってくれた彼女に、救われたのはむしろ俺のほうで。

 流れていく時間は、指の間から零れ落ちていくように、
俺が彼女と過ごせる時間は、もうあと3週間で。
言い出せっこない気持ちは、やはり胸の中で消えるのを待つしかないと考えた。
なのに性懲りの無い俺は、
このグラスが空になるまでに、
万にひとつもない彼女の心変わりを願い、祈るような気持ちでグラスを傾けてる。
 …今日のビールは、なんか苦いなぁ。
ちょうど今に、ぴったりくる味だよ。

 全然可能性なんかなかった。 初めから。
わかってた。 でも好きだった。

 来月の頭には、彼女はこの街からいなくなる。
このグラス一杯が、一緒に飲む最後の酒になるかもしれないと知りながら。
 幸せになって。
口に出せないその一言を飲み込むように、ぐいとグラスを傾けた。

 

2009.9.29 Update.

  


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