※この物語はフィクションです。


 サウナルームでの悪ふざけは、大変危険です。


 絶対にマネをしないでください。




































21時のサウナルーム

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昭美に別れを切り出された帰り道、俺は車で市内の幹線道路を走っていた。 ナビに映る時刻が、20時30分を静かに超える。 秋の深まる夜の外気は、かすかに冬の匂いを含んでいた。
 飛ぶように流れていく色取り取りの夜景には目もくれず、俺はウィンドウをまた少し下げた。横顔に、冷たい風がばさりと吹き付ける。 車内に容赦なく侵入してきた風は、頬を叩き、首筋の皮膚を引っ掻くようにして、後席の窓から逃げ去っていく。
 それでもまだ、俺はウィンドウを下げた。 あの女の、甘ったるい香水の匂いが、まだ車内に残っている気がしたのだ。

「あんたよりイケメンの彼を見つけたから」

 と、あっさり浮気を白状した昭美は、「ほんじゃま、そういうことで」と部下に仕事を押し付ける上司のような態度で席を立った。
 ショックでなかったといえば、ウソになる。 それは認めよう。 いや実際結構ショックだった。 突然の事に虚を突かれ、「えっ、ちょっとまって」と反応できなかった。
 ……まあ、いいさ。
 世の中には、70億通りの人生があるのだ。 こういうことだって、あるさ。
 俺は、去っていく昭美を、黙って見送った。 全然、傷ついてなんかいないのだ。
 本当は、あんな貧乳など、とるに足らんと思っている。 俺のタイプはも少し巨乳だ。 俺は、最後まで、文句のひとつも返さなかった。

 有料道路に差し掛かる大きな交差点を右折し、300メートルほど直進したところに、深い青色をした大きな看板がある。
 『スパ・リゾート ZABOON!』 と書かれた看板は、上下に設置された照明によって明るく照らされ、何か、悲しみなどとは程遠い楽園へ案内しているかのようだ。
 ここは俺の、行きつけのスーパー銭湯だ。
 俺はウィンカーを作動させて、ブレーキを踏み込む。
一ッ風呂、浴びて帰りたい気分だった。





 天国というものがもしあるとしたら、地上でそれに最も近いのは、スーパー銭湯だろうと思っている。小さな子供からヨボヨボの年寄りまで、みんなおそろいのムームーを着て、寝転がったり、飯を食ったり、フルーツ牛乳を飲みながら足ツボを押してもらったりしている。 俺はあのムームーを着ようとは思わないが、みんながリラックスする雰囲気の中にいられるというのは、いいものだ。
 甘いような、それでいて素足のような香りのする板張りの回廊を進み、褐色(かちいろ)の暖簾をくぐる。 白抜きの太い毛筆で、『おとこYou』と書かれたその暖簾の向こうこそ、俺にとっての地上の天国だ。
 流石は出来たばかりのスーパー銭湯、日曜日の夜もお客の入りは上々のようで、脱衣所をフルチンの少年が駆け回っている。
 俺は手ごろなロッカーに脱いだ衣類を放り込み、タオルを2本持って鍵をかけた。
 今は一秒でも早く、汗を掻きたかった。 スノコを渡り、2重扉を開けて、湯気けむる楽園へと踏み出した。

 スパ・リゾート ZABOON!の一番良い所は、まあ普通の感想だが、出来たばかりで清潔感があるという所だろう。 別にスーパー銭湯が大好きで、あちこち行っているという訳でもないので、特に通っぽい事は言えない。また、ZABOON!というのは大変語感の良いキャッチーな名称ではあるが、実際に大浴場にザブーンと飛び込んだらそれは確実にマナー違反となるので、聞き分けの無い子供に付け入る隙を与えている罪なネーミングでもある。 だがそこもまた、チャーミングで微笑ましくて良かった。
 ここには4つの大浴場と、大小2つの露天風呂、座敷風呂、さらにサウナ等の設備が備わっている。
 見た目は豪華だ。 ジェットバスのような設備もあれば、ごくごく一部だが電気の流れる風呂というようなものもあるし、薬草湯もある。 露天風呂の造りもしっかりとしていて、わりと大きい。 岩場のような浴槽の前面中央には42型の薄型テレビが設置されており、湯船に腰掛けてテレビに集中する人々は、いつ見てもサル山の猿たちを彷彿とさせた。悪口ではない。
 俺はさっそく、洗い場に腰掛け、タオルの一本を使って身体を清めた。
 五感を閉じて、シャンプーに専念する。 タダの洗髪剤をたっぷりと掌にとり、髪の根っこにまで届くよう指を立ててガシガシ洗う。
 蛇口のツマミで湯の温度設定をうんと熱くして、泡を洗い落とす。 余計な事は考えない。 本来なら今頃ホテルでシャワー浴びてたのになとか、そういうことは、あうっ。 …しまった、考えてしまった。
「くそっ」
 雑念を振り払うように、無我夢中で身体中を洗った。 全然気にしてなんかいないのだ。

 ひと通りに浴場を巡り、一汗掻いた身体をかけ湯で流すと、俺は露天風呂脇の目的地を見据えた。 21時、ここからが本当のZABOON!だ。 ひんやりとした石の通路を歩いて、『サウナいりぐち』と書いた扉を開く。

 ―――その時俺は、何も考えずに、その扉を開いた。
そこに、壮絶な戦いが待ち構えている事など、知りもしなかった。






 ZABOON!のサウナは、本場フィンランドの乾式サウナだ。 木製の三段席の向かいに大型のストーブが置かれ、そこでは山と詰まれた小石が熱されている。 わりと広い方だと思うが、埋まっている席はまばらで、俺を含めてもお客は5人だった。
 品の良さそうな七:三分けの男性、黒く日焼けした中年の巨漢、それから、大人しそうな小柄な爺さんがひとりと、あと、俺と年の近そうな、爽やかな風のイケメンがいた。
 もわりとした熱気を顔に浴びながら、俺は2本のタオルの内の一本を、3段目の席に敷いた。 タオルの一方の端の上に腰掛け、腰周りを半周させて、反対側の端で前を隠す。 もう1本のタオルは、汗拭き用だ。
 俺はこのサウナで、ひとつの自分専用ルールを設けていた。
 ――それは、“先に入っていた人よりも先に出てしまったら負け” というものだ。 自分でもあまり意味を見出せないルールで…言うなれば、単なる意地である。
 だが、サウナルームでは、そういった無言の意地の張り合いが頻繁に発生する。 『あの若造より早く出るわけにはいかねえ』という、おっさんの荒い息遣いに遭遇したとき、俺はつい思ってしまうのだ。 『おいこの野郎オッサン、バカにすんなよ』と。 『絶対おれのほうがガマン強いもんね!』と。
 こうした戦いは、突然にして幕を上げる。 そして俺は、これまでの戦いのどれひとつとして敗れたことがない。 週2回でサウナに通うようになったのは、ええっと、ここ半月とかだから……まあ、4〜5回の間連続で負けなしというところだろう。 無敵と言っても過言ではない。
 俺は、焼け石が産む陽炎の向こう、壁に掛かる計器を、ちらと見た。 9時を過ぎたばかりの時計の横で、温度計は90度を示している。 無音のテレビが、薄暗いサウナルームの壁の色を時折カラフルに彩る。
 額にうっすらと汗が浮かぶ頃、不意に、室内の照明が、パーッと明るくなった。

――なんだ?

 前傾姿勢になっていたサウナの客たちは、照明の変化にふと顔を上げた。 すると、どうしたことだろう。
 サウナのストーブにかけられた焼石から、ふわふわとした漫画で書いた風な煙が、意思を持ったかのように立ち上がった。 煙は空中でくるくると回転すると、ひとつにまとまって色彩を増し、牛乳パックくらいの、小さな老人を形取った。 突然現れた老人は、白い長髪をオールバックにして、純白の作務衣に身を包み、ひしゃくのようなものを持っていた。 
「へあっ」
 一段下に座る大柄なおっさんが、驚いて変な声を上げた。

『驚かしてしもうたかのう』

 表情はよく伺えないが、老人は部屋中に聞こえるほど、はっきりとした声で喋った。 申し訳のなさそうな声色だった。
「な、なんだ?!」
 サウナ内が、驚きに騒然となる。
 急にストーブから小人の老人が現れて、喋り出したのだ。 皆、幻覚を見ているのではと顔を見合わせる。 すぐに「全員が見えているようだ」という結論に至ってもまだ、目の前の光景が信じられない。
『まあ、まあ。 楽にせい。 急に出て驚かしてしまい、すまんのう』
 1/6スケールのリアルなフィギュアに見える老人は、しゅんとして詫びた。 それを見て、隣に座った爽やか風の男が「ねえ、あれなんなの?」と興奮気味に耳打ちしてくる。 俺に聞かれたって知らない。
 老人は、トンでもない事を言い出した。
『ワシか? ワシは……サウナの神じゃ』
「…はい?」
『じゃから、サウナの神様である。 今日はお前さん方に、話があって光臨した』
 室内のざわざわが、いっそう大きくなる。
「ちょ、ちょっと待ってください。」
 サウナの神を自称するスモール爺が、なにやら『話』を始めようとするタイミングを強引に奪って、七:三分けのお客が言った。
「サウナの神様って事は、あなた、フィンランドからきたんですか」
 隣の青年が、「んなもんどうでもいいだろ」と小声で吐き捨てた。 …たしかに、今大事なのは、ジジイの出身地よりもこの超常的現象が現実かどうかだ。
『うんにゃ、フィンランドは行ったことない』 老人はけろりとして首を降るった。
『わしゃ、日本の神様じゃよ。』
すると、
「サウナはフィンランドが発祥ですよ。 日本のサウナの神様なんて、聞いたことないですが」
 七:三のおっさんが、さらに言った。 サウナの神様は機嫌を損ねたように口を曲げる。
『この国の神道は多神教じゃろうが。 日本には八百万の神がおる。 トイレにだって女神様がおるんじゃから、サウナにもおったってええじゃろ』
 皆が押し黙ったのを、肯定と受け止めたのか、サウナ神は気を取り直して笑顔になった。
『話を元に戻すぞ。 今日ワシがやってきたのはな、おぬし達人間に褒美をやるためじゃ、厳正な抽選の結果、おぬし達5人にその挑戦権が認められた』
「褒美?」
 七:三のおっさんが、いちいち反芻する。 えらく食いつきがいい。
『そうじゃ。 いつもサウナを利用してくれるサウナ大好きなお前さん方に、神の力を以って褒美をつかわそうというのじゃ。 有難い話じゃろう』
 登場したときの申し訳なさそうな態度とはうって変わって、サウナ神は急にでかい態度になってみんなを見下ろした。
『ほしいかね? ほうび』
 うっすら子バカにしたような言い方である。
「褒美なんていって」
 今度は、小柄な爺さんが声を張り上げた。 突然の大声に、他の客たちがぎょっとする。 まさかとは思ったが、イントネーションがおネエ語だった。
「これドッキリじゃないでしょうね!? アタシはだまされないわよ!」
 キンキンと高い声を上げる爺さんに、(見た目の年齢は近そうな)サウナ神はどうやら腹を立てたようだった。ストーブから立ち上った雲に搭乗すると、天井近くまで上昇し、おネエ爺さんに向けて、手に持った金色のひしゃくを掲げた。

 次の瞬間、俺達が受けた衝撃は、ご近所中の「うわ、びっくりした」と思う出来事を掻き集めても足りないだろう。 柄杓から銀色の光が零れたかと見えた瞬間、凄まじい雷撃がおネエ爺さんの脳天に落ちたのだ。
 バチーン、という部屋を震わす衝撃音と、太陽が割れたような閃光に、俺達は思わず目を覆った。 「うわ、あの爺さん死んだぞ!」と誰もが思った。
 しかし、目を開いたとき、落雷の落ちた場所に居たのは、すっかり若返った“小柄な爺さん改め、小柄な若者”の姿だった。
「アッ、何これ、若返ってるじゃないの!」
 小柄な若者はサウナ神の差し出した手鏡を見て驚喜していたが、すぐにもう一度雷を落とされて、元の貧弱なジジイに戻った。
『やれやれ…これで信じたか? わしの神通力を持ってすれば、若返りはもちろん、富も、名声を得る事も、思いのままじゃ。 何でもたった一つ、願いをかなえてやろう。 どうじゃ? その気になったかのう』
 俺はまだ半信半疑だったが、何か、人の知る理と大きく離れた事態が進行している事は、疑いようがない。 事実、おネエ爺さんの若返りを目の当たりにした(本人を含む)他の4人は、すっかり身を乗り出して前傾姿勢になっている。
 本当ならば願ってもない話だ。 何をお願いしよう。
『ただしのぅ』
 サウナ神は口許に人差し指をあてて言った。
『無料で叶えてやるわけにはいかん。 ちょ、おい、そんな顔をするな。 金など取らんよ。 ワシの神通力はな、おまえさんらの“我慢”がその源泉となる。 “熱耐(あつたえ)”で最後まで居残ることのできた勝者のみ、願いをかなえてやろうというのじゃ』

 『熱耐とは、平安時代末期に、日本で最初の銭湯が出来た頃から伝わる遊戯で――』というような説明をサウナ神は語りはじめたが、忘れた。
そんな前口上はどうでも良い。 ここには裸とタオルと熱気しかないのだ。 説明などむしろ不要だった。
勝利のルールは、ただひとつにして明快だった。

―――このサウナで、一番長く我慢を出来たもののみが、神に願いを叶えてもらえる。

「…俺はやるぜ。」
 これまで黙っていた、大柄なおっさんが、黒々とした筋肉の盛る腕を挙げて、応えた。
「アタシも乗るわ」
「僕も乗った。 面白そうだ」
 次々と賛同者が手を挙げ、となりの青年も「やりますかね」とクールに参加表明をした。
 室内に満ちた熱気が、さらに上がったような気がする。
「…ただ耐えるだけでいいのか? それで本当に、何でも願いが叶うの?」
 俺は、手を挙げて神に問うた。
『そうじゃとも。 ただ、耐えるだけでいい』
「なら、俺も参加するよ」
 思わず、笑いが漏れそうになる。 元より俺は、このメンバーが全員出て行くまで、居残るつもりだったのだ。 好都合じゃないか。
サウナ神は雲にのってふわりと皆の眼前にやってくると、柔和な瞳をすうっと細め、戦いを好む鬼神のような、ゾッとする笑みを浮べて、こう言った。

『よかろう。 ――ならば、戦えい』


 21時過ぎのサウナルームで、見えない戦いの火蓋が切って落とされた。




 

2012.10.21 Update.

 
 


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※ 本作は、吉田和代様主催の同一テーマ創作企画 『オンライン文化祭』 に登録させて頂きました。





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