『 over time 』
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 シフトでは12時に上がる事になっている。
腕に巻いた時計の針を見て、それから。
腕を伸ばしてテーブルを拭く、彼女の細い背中を眺める。

 現在時刻は、日付が変わって午前1時45分。
店のほうは15分も前に閉店しているけれど、片付けやら売り上げの集計やらを済ませると、
店を出るのは、大体いつも2時になる。
 レジと帳簿をいじくっているとほかに作業ができない為、いつもはバイトのハジメに店の掃除を
やらせている。 この時間にシフトを気にせずに残っていてくれるのはあいつくらいなもので、
そのハジメは、今日は休みでいない。
 代わりに、鈴木くんがいる。
何度か帰るように言ったが、それでも彼女はこの時間まで居残ってしまった。

「鈴木くん」
 レジの引き出しを操作しながら呼びかけると、彼女はこちらを振り向いた。
口元に薄く笑みを浮かべて、手を伸ばした体勢のまま、首をかしげてみせる。
「はい、なんですか?」
「しつこいと思うだろうが、帰り支度をしておいで。 電車も動いてないし、これから送るよ。 閉店準備は俺がやっておくから。」
「三田さんそれじゃ、二度手間でしょう。 最後まで付き合いますよ。 ただ、送っていただきますけどね。」
 鈴木くんはふわりと微笑むと、再びとめていた手を動かし始めた。
「…悪いね。」
 溜息をついて苦笑いする。
 店内にはもうほかのスタッフはおらず、BGの止まった静かな空間に、彼女が歩く音と、
レジをさわる音だけが響く。
 彼女がこんなに遅くまでいるのは、ハジメが入ってきて以来、初めてのことかもしれない。
いてくれたほうが助かるから、もう余計な気は使わないことにした。
困ったなと思う反面、彼女の厚意を素直に喜んでいる自分も、やはりいるのだ。


 テーブルを拭き終えて、照明の掃除とごみのまとめまでこなし終えると、
彼女はタイムを切って、バーカウンターのスツールに腰掛けた。
「なんだか、とても久しぶりですね。」
「久しぶり?」
「ええ。こうして、二人で夜中に帰り支度をするのって。」
 楽しそうに微笑んで、鈴木くんはあごの下で指を組む。
その仕草に軽い動悸を覚えて、手元に視線を逃がした。
ちょうど手に取った新渡戸稲造の顔には折り目が入っていて、にやりとした視線が飛んでくる。
「そうだね、君が入ってすぐの時は、よく無理をさせた。」


 彼女と初めて会ったのは、3年前のこの季節だったように思う。
雨の降る中傘も差さずに。 半ばずぶぬれになって、閉店まぎわのこの店に客としてやってきた。
その日はもう客など来ないと思っていたから、ほかのスタッフは帰らせていた後で。
突然の来客に少し驚きながらも、俺は彼女をカウンターへと招きいれた。
「いらっしゃいませ。」
 俯いた彼女の目は、生きることを拒むように色を失っていた。
大きな悲しみを背負っている人だと、ひと目でわかった。
喪服で通用しそうなダークグレーのスーツからは、かすかに雨と線香の匂いがした。
「ご注文は、おきまりですか?」
「よく…わからないんですけど。 お勧めとか…ありますか。」
「お勧めですね。 わかりました。」
 洗い終えたばかりのカクテルグラスとシェーカーを手にとって、時計を眺めた。
時刻は、1時30分を超えた辺り。
 時間外労働の始まりだった。

 その次の日、彼女はバイト希望として、明るいうちから店の戸をたたいたのだ。



「入ってすぐの時は、大変でした、もう10時を過ぎると、眠くって。」
 照れたように笑みをこぼしながら、瞳にかかった前髪を耳の方へ梳く。
「うちでは新人をこき使うっていう、ありがたい風習があるからな。」
「三田さんも?」
「ああ。元は、俺が働いてた店の習わしなんだ。 そこじゃあ、もう、何から何まで新人にやらせるんだよ。」
それこそ、帳簿から金庫管理まで、全部ね。
彼女は目を丸くして、すごい、と笑う。
「でもちょっとそれあぶなくないですか?」
「店長も残ってるんだけど何もしなくて見てるだけ。 まあ、いい勉強になったけどね。 ひどくコキ使われたっけな。」
 数えていた途中の札束をレジに戻して、つんと引き出しを押した。
洗剤で手を洗って、洗ったばかりのシェーカーを手に取る。
あっ、と、彼女が小さな声を上げた。
「その代わり……働きものにはサービスがあるんだ。 一杯だけ付き合うかい?」
 ジュークボックスの電源をオンにして、切っていたサブの照明に明かりをともす。
息をふきかえした店内を見回して、彼女は。
「だめじゃないですか、ちゃんと集計しないと。」
「面倒くさいんだもん。一日くらい集計しなくたって、どうってことはないよ。」
「妙なところで いいかげんなんですから。」
 あきれたように笑う彼女に、微笑みかける。
「ご注文はおきまりですか?」


 彼女は少し考えた後で、恐る恐るといった風に切り出した。
「覚えていますか?」
疑問符を浮かべる俺に、めずらしくあわてた様子で。
「あ、あの。 ほら、初めて私がここにきた時に出してくれた、カクテルですけど。」
甘口な感じで、レモンを飾った…ブランデーベースだと思うんですけど、
どの本を見ても載っていなくて。
彼女は頭をひねって、思いつくかぎりのヒントを並べる。
 3年前。 覚えていたのか…懐かしいような、くすぐったいような気持ちがひろがっていく。
「ああ―――……あれね、オリジナルなんだよ。」
 彼女は少しおどろいた顔をした。
それから納得したように微笑んで、レシピを覚えていれば、あれをお願いします。といった。
「わかった。」
カクテルグラスを手に取る。
必要なボトルと果物を並べて、順にそれを手に取った。

 思えば、なぜあんなことしたのだろう。
今になって思い返せば、ずいぶんと馬鹿なことをしたものだと思う。
訳ありな様子の、美人の客。
 昔の悪い癖だ。 プロにあるまじき行為だった。
初めてやって来た彼女に、即興で作ったオリジナルを出した。
彼女を見ていて、自然に頭に浮かんだイメージの通りに作ったが、
うまいかまずいかもわからないそれを、よくもまあ自信満々に出せたものだ。

「お待たせしました。」
 琥珀色の酒を満たしたカクテルグラスを、彼女の目の前に差し出した。
 静かにグラスを手にとって、いただきます、と彼女が言う。
薄く紅を引いた唇に、グラスが傾けられる。
その様子を盗み見て、溜息を吐くのを我慢する。

 そう。 一番最初に会ったときから、おれは調子に乗っていたのだ。
その真実に気づくまで随分時間がかかって、気がつけば手遅れになっていた。

「…おいしい」
 グラスを離れた唇が、満足そうな笑みにかわる。
一歩引いて、おれは頭をさげる。
「ありがとうございます。」
その様子がおかしかったのか、くすくすと彼女は笑い出した。
「三田さん?」
「…ん。」
「覚えていてくれて、ありがとうございます。」
 面食らった俺に、彼女は大事そうにグラスを両手で包んで。
目を閉じ、穏やかな口調で、
「知ってました? 私がこの道を目指すようになったきっかけは、このカクテルと三田さんなんですよ」
と、言った。
「覚えていないかもしれませんけど、あの日、沈んだままこの店にやってきたわたしに、三田さんはこのカクテルを出して、すごく格好いいことを言いました。」
「…そうだっけ?」
 ああ、覚えている。
かすかに顔が赤くなるのを感じて、どこまでしらばっくれる事ができるか、考えた。
「『グラス一杯の酒を飲むわずかな時間でも、その間に、人生は変えることができる。』って。」
「そんな事、いったかな。」
「言いました。 私はその言葉に、すごく勇気付けられたんですから。」
 口説くつもりだったのかもしれない。 いまさらそんなことは、口が裂けても言えやしないけど。

 彼女は昔、テニスのアマチュアプレイヤーをしていた。
スポーツ推薦で大学へ進学し、活躍し始めてすぐに、
事故にあったのだという。 20の頃の話だ。
その後遺症で、今でも雨の日は、左の足を少し引いて歩いている。
 両足を複雑骨折することで彼女は、大学生活を、入院することで消費してしまった。
『テニスプレイヤー』として彼女を迎え入れた大学は、
テニスができなくなって単位も取れていない彼女を、当然、いつまでも在籍させてはくれなかった。
そこまでは、鈴木くんの話から聞いていた。

 しかし、彼女があの日、雨に打たれながらここへやってきた理由は、別にある。

 入院生活中、いつまでもしつこくお見舞いに来てくれた、同じ入院患者の少年がいたこと。
くだらない事で彼とよくケンカをしたこと。 手術の前日に、お守りをくれたこと。
一緒に病院を抜け出して、デートをしたこと。
そして、彼が治らない病を抱えて生きていたこと。
 鈴木くんが3度目の手術を終えて、自分の力で歩けるようになったとき、
彼は、ベッドの上から起き上がることすらできなくなっていた。
 懸命に彼女に生きる元気を与えてくれた少年は、
一度も彼女に好きだといわないまま、息を引き取った。
 あの雨の夜。 彼女が初めてここへやってきたのは、彼のお葬式の後だったそうだ。


 あの頃。
見習いとしてここへやってきた頃の彼女は、とても無理をしていた。
毎晩、誰よりも早く店に来ては、誰よりも遅くまで店に居残った。
10時を過ぎると眠くなるというのは、嘘だ。
本当は逆で、眠れないから働いていたのだと思う。
 3年が経ち、今再びこうして、カウンター越しに向かい会う彼女の表情を見ていると、
そのことがよくわかる。
 あの頃に比べて、彼女は、とても元気になった。
目指すべき目標も持っているし、恋もしている。
それらに自分が少なからず助けとなったことは誇るべきことであり、
落胆すべきことではない。


「私は、三田さんの言うとおり、この一杯のグラスを空にするまでの間に、たくさんのことを考えたんです。 
自分はこれからどうやって生きていこうか。 何をするべきなのか。 ―――でも、ひとつも何も浮かんではこなくて…。
だから、よくわからないままで、歩いていこうと決めた。 私は、せっかく歩けるようになったんだからって。」
 そう微笑みながら静かに語る彼女の瞳は、ずっと先を見つめているようだった。
現在より向こう、カウンターの中の俺よりも、遠くにいる誰かを。
「あの時、訳も話さず突然泣き出したりして、すみませんでした。」
「いいんだ。」
くすりと笑いながら。 静かに立ち上がって、彼女が空になったグラスを返した。
「このカクテル、よければ作り方を教えてくれませんか?」
 俺は彼女に背中を向けて、グラスを洗う。
「悪いけど、こいつは俺も傑作だと思っていてね。」
蛇口をひねって、乾いた布でグラスを拭き終える。
ラックにセットしなおして、彼女の方を振り向いた。
「君がここを出て行くとき、教えるよ。」
 せめてそれまでは。
たった一杯の酒をつくれるだけの男でもいい。
君にとって、唯一でいさせてほしいんだ。


 即興で作ったカクテルの名前を考えた。
オーバータイムというのは、どうだろう。
 君と俺が初めて出逢った時間帯。
そして君と俺が唯一ふたりきりを共有できる時間帯。
時間外労働という意味と、あとひとつ。
時間が、全てを思い出に変えてしまうという意味だ。
君の悲しい記憶も。
俺の息苦しい気持ちも。
繰り返すうち、きっといつかは時間切れがくるのだろう。
 それを心待ちにしながら、ずっと恐れている。
今この瞬間ですらも。

 まいったな。いつも皮肉まじりだよ。


 

2009.10.12 Update.

 
 


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